中心のある生活は 常に平静である

法のことば 法語カレンダーに拠りつつ (1973年度)

われに不動の一点を与えよ
さらば宇宙を動かしてみせん・・・
西欧の或る哲学者の言と聞くが、まことにわれらは不動の信念を持することが出来たな ら如何なる事態に直面しても泰然として居れるであろう。 だが事実は、われらは常にあらゆる問題にゆさぶられ通しであって心安きときがない。 拠って立つべき一点を持たないからである。まづわれらはものごとを正しく見る眼を持た ない。つねに我が身勝手な見方をしてはあてが外れて大騒ぎをする。それは瞋となって爆 発するか愚痴となって徒らに悲嘆するかである。因縁の道理を見究める智慧の眼無きがゆ えにである。 そして、また静かに聞く耳を持たない。手前勝手な主張のみ言いたてて互いに相諍う。そ こに出来するものは闘争のみである。勝たねば負けるというだけではすなわち畜生の世界 である。 われらは光をうけてはじめてものの姿を見ることが出来るのである。仏の教えに遇うで はじめてものごとを正しく受けとめることが出来るのである。 われらを悲愍したもう大悲のお声を聞くことによってはじめて和かな心にならせていた だける。そこにおのずから他人さまの立場を認め相手の主張に耳傾けることが出来る。 思えば「共にこれ凡夫ならくのみ」である。無闇に肩肘張ることもなげればさりとて卑 下することもない。 「仏法」とて何かに眩惑された、酔うたようなものであってはならない。道理を聞きひら いたうえから得る静かなこころである。徒らに熱狂したり、やたらと力みかえっているも のはすぐに冷めて崩れていくであろう。ひとり静かに味わさせていただくとき胸底深くか ら滾滾と湧きあがってくる無限の喜びと溢れ出る力強さを感ずる。そこにあらゆる事態に 処しても自ずから道開けてくるであろう。 すなわち中心を持つものの生活は常に平静である。 照真同朋会報・1973年1月

2006年8月8日