真実は常に明るく 永遠である
仏の徳は智慧と慈悲である。智慧は「光明」と表され、慈悲は「寿命」と示される。光 明は明るさをもたらし、慈悲は温さを与える。もともと人聞は明るさを好み闇を怖れる。 しかし、われらの肉眼が借光眼といわれて、光の力を借らなくては物を見得ないごとく、 心の眼もまた教えに依らずしてはものの道理を見得ないのである。 さればこそわれらには迷いから迷いえの生活しかない。迷いはいよいよ迷いえと続き、 苦悩ははてしなく苦悩えとみちびく。しかし、またわれらは苦悩に在るゆえに苦悩なき世界を求め、 闇に在るがゆえに明るい世界を願う。この根本の願いを本願という。 しかし、よくよくわが身を省りみるに、迷いを迷いとも知らず、真実の願いに目覚めずし て、ただ徒らにその日その日を過しているのである。そうしたわが身を知らしめて下さる ところに仏の教えがあり、それを光明となぞらえて示されるのであるが、その本は限りな き仏の慈悲から流れ出でたものである。太陽の光にすでに温かさが添えられてあるがごと く、仏の教えには仏の切々たる慈悲のお心がこもっているのである。 自覚なき者に自覚を与えるところから、仏の教えは、はじまる。 それは久遠の古からわれらの上に懸けられていた仏の願いであり、 十方衆生が一人残らず救われる日まで永遠に熄むことなき仏の願いである。 このことは私が今これを受得したとき、それが肯かれ今の一点においてそれが証明される。 まことに仏の真実は常に明るく、それゆえに一切のものごとを明らかに照し出すとともに 無限に及ぼされる広大さであり、いついつまでも約束される永遠さを持つ。いつでも、何 処ででも、誰れにも与えられているものである。照真同朋会報・1973年2月2006年8月8日