凡夫・韋提華
かねて承わるように、家庭悲劇の真ッ只中に置かれた韋提夫人が釈尊の御ン前に自から 瓔珞を絶ち身を大地に投げ伏して教えを請いたてまったとき、釈尊が先づ仰せられたのは 「汝は是れ凡夫、身想贏劣(しんそうるいれつ)なり」とのおことばであった。 優しい慰めを期待していたかも知れない韋提華に対して、実に厳しいおことばである。 しかし、事実を明らかに指し示して下さったところに真のお慈悲があったのである。 私どもはややもすればすぐに「どうせ凡夫だから・・・」と簡単に口にするけれど、それ は真の懺悔に立ってはいない投げやりの言葉か若しくは狡るく逃げたものではあるまいか。 卑下慢もまた慢心の一つであると聞く。高慢の裏返しであろう。そして他人を責めるに 「・・・のくせに」と決めつける。他を責めるに厳なる私は己れを庇うに甘く優しい。 ここに釈尊の「汝は是れ凡夫」とは裁いておられるおことばではあるまい。切なる慈愛 のお心をもって「汝、自身を知れ」と先づおおせられたのである。ここから凡夫のために こそと懸けられた如来の悲願・浄土の門は開かれたのである。凡夫・韋提華の為に示され たみ教えはそのまま流転の生を重ねている私のためのみ教えであったのである。 「汝は是れ凡夫なり」とは、仏さまなればこそ仰せられるおことばであり、このおこと ば、み教えに値いまつってこそはじめて私自信また心素直に「私は凡夫であります」と申 させていただくのである。(1972・9・30)2006年8月9日