女人往生

日本の仏教において女人救済が説かれ女人往生の門戸が開かれたのは鎌倉期に到ってか らのようである。そもそも、それまでは貴族仏教とすらいわれて一般庶民にとっては遙か なる存在であった。 その仏教を高いお山の頂から降してわれらの日常生活の中に受け取っていく教えとして 広く庶民に門戸を開いたところに鎌倉期の仏教の展開があったのである。そしてこの頃、 新たに開かれた諸宗の祖師のかたがたもそれぞれ"女人成仏"を説いては居られるが、し かもその内容はきわめて高遠な、すなわち「難行」の道である。 それは、世濁にまみれ凡情に流されてむなしく流転して行く凡夫・女人には叶いがたき 道といわなければならない。何も女人のみに限ったことではなくして、生死の凡夫たるわ れらにはいまなお道遠しである。 ここに弥陀の本願に立って女人往生をすすめられる浄土の法門はまさしくわれら愚痴無 智の者のためのみ教であり、日常の家庭生活をそのまま求道の場とせられる。言いなおす ならば、生々しい人間生活そのものの中に切なる如来の喚びかけを聴く・・・。この外にわ れらにとっての仏道はないのである。如来の教えに会い得てのみ、はじめてわれらは己れ を知り真の願いに目覚めしめられる。 如来の本願にわれらの往生がすでにして約束されてあっをとを思えば、何も殊さに 「女人」の問題をあげつろうべきではなく、われ・ひともろともに、如来の本願の前に跪 かさせていただくのみである。 (1972・12・30)

2006年8月9日