種を蒔く
春は種を蒔く季節である。

種を蒔く 春は種を蒔く季節である。 一粒の種子の中に、秘められているもののいのちを、芽生えさせたいと願いをかける季節で ある。 ある人と連れ立って歩く道中でこんな話を聞いた。 ・・・キュウリの種を腹に巻いて、もう何ン日かになるんだけれど、まだ畠に稽しができ んでなアー。 春もまだ浅いころのことであった。それにしても、解せないので根掘り葉掘りたずねてみ たら、発芽を促すために腹に巻いて、体温で温めつつ蒔くのに備えているということである。 これを生活の智慧というのであろう。いまの温床栽培とか、科学的処理法のない頃昔の人 はすでにこのような方法を編みだしていたのである。 しかし、それは単に芽出しを急がせるだけのためではなくして、もののいのちに寄せられ た深い愛情ではあるまいか。農家の人たちは物をとり入れる(収穫)ことの喜びに先立っ ていのちを芽生えさせ、育てばぐくむことにまず喜びを抱いているのだと思う。 ・・・朝早く畠を一ト廻りして、みんなの(作っている苗木の)声を聞くのがその日のは じまりです・・・と語ってくださった人の言葉が思いだされる。そこには深い愛情と、もの みなのいのちを拝んでいく敬虔な心がこもっているのであろう。、 種子の中に秘められたいのちは畠に蒔かれ、もろもろの縁にふれて、はじめて生き生きと 息づき、育ち、そして稔ってゆく・・・。その第一歩として人々は春を待って種を蒔く・・・。そ れはもののいのちよ、全かれとの無尽の願いをかけていることなのである。

春はもののいのちの芽生えを願う季節である。
(昭和52年4月)

2006年8月17日