雨の日に

早くも梅雨に入るという。一年中で最も憂欝な季節である。
わたしたちは、お天気のことが一ばん気にかかるもので、毎日の挨拶がまずお天気のこと からはじまるくらいである。 晴の日は何日つづいても結構だが、雨となると三日もつづくともう嫌になる。昔の人は ひして "十日照ってもまア一日"と言ったというが、せめていま一日お天気がつづいて欲しかった という気持ちであろう。それほど左様に雨の日は嫌なのだが、さてそれは何故なのだろう。 思うように活動出来ないからなのである。 もともと、人間は活動的にできているので、ぢつとしているのは苦手なのである。とくに 不精な人は別としてわたしたちは絶えず何かしていないではいられない。たまにはゆっく り昼寝でもしたいものだと口ではぼやきながらも、半日もすればもう暇を持てあます。 これは働くことが、美徳だと教えこまれてきたせいもあろうけれど、絶えず心せわしく内 側から、急きたてられる何かがあるようである。それならば、どれほど纏ったことをでかし得 ているか?・・・そんなことは論の外とばかりただもう聞くもに走りまわっているばかりである。 だから"忙しい忙しい〃が口癖にすらなっている。たまたま雨の日ならば、ぢつくり落着 いて日頃の暮しぶりをふりかえて見、心静かに勉強すれば良さそうなものだが……。およ そわたしたちは「暇」の使いようが下手らしい。
「晴耕雨読」という言葉がある。
雨の日なら、それとして、書物に親しみ心を養って、明日への方向を正していこうとい うのであろうが、これがなかなかできにくい。 「晴耕は欠かさねど、雨読なりがたし」という句を読んだことがあるが、まさしくそれであ る。ブラジルで日本人の勤勉なことは定評があったが、そしてその勤勉さのゆえに、祖国 を遠く離れた異境の地にあって、裸一貫から生活を切り拓いて、功名成りとげていったので あるけれど、それらの人々のなかに、あまりにも心貧しい人のあったことに暗然としたこ とを思い出す。 けれども、わたしもまた、はたして心豊かといえるであろうか。
「屏営愁苦して累念積慮す」『大無量寿径』真宗聖典58頁
思うようにならぬといっては気が塞ぎ、あてが外れたといってはうろたえる。 心のために馳せ使いで安きときあること無し。 とのお経のおことばが思いうかばれる。 まさしく、心もまた憩ぎを与え栄養を与え、み教えによって育てられてゆかなければならな いのである。五十路の坂を越した今日、いますこし、われ自身をいたわり大切にしてゆかな ければならないと思うことである。
朝からの降りそそぐ雨を一ッぱい浴びて、庭の八ツ手がひとしお、緑つややかである。
(昭和52年5月)

2006年8月17日